企業に入社して職場生活が始まると、当たり前ですが、そこ
には法律関係が存在します。職場においては、タテ、ヨコな
どいろいろな関係が発生し、そのルールに従わないと懲戒処
分を受けます。その程度によっては解雇され、企業外に排除
されます。会社生活は、職場秩序を維持するために企業内に
ルール(就業規則)が制定されています。
職場生活の法的な基礎は労働契約です。労働契約といわれて
も契約書などを取り交わすことは少ないのではないでしょう
か。外資系企業では、労働契約書を取り交わすようですが。
この点、雇用契約などを交わさないわが国においては、契約
精神が欠如する大きな理由だ、と私は考えています。多くは
採用通知書をもらえば、それで終わり。めでたく企業へ入社
という感覚でしょう。
本来、入社後における企業との雇用関係をどのように維持す
るのか、という観点で仕事及び職場を考えておくことが必要
なのですが、ドキュメントよりは慣習なんていうところでし
ょうか。あるいは社会の空気。これが問題を大きくします。
理由は、労働契約の中身を理解していないからです。
労働契約は、労働力そのものの利用を目的とした人的で継続
的な契約関係です。労働契約では、企業が労働力を利用し、
使用者の指揮命令に基づいて仕事がおこなわれます。また両
者間の信頼関係(誠実配慮の関係 )が重視される契約です。
判例でも、「企業における雇傭関係は単なる物理的労働力の
提供の関係を超えて、一種の使用者の指揮命令権として相互
信頼を要請するところが少なくなく、わが国におけるように
いわゆる終身雇傭制が行われている社会では一層そうである」
(昭四ハ・ ーーー・ーニ最高裁大法廷判決、三菱樹脂事件 )
労働契約関係は継続的な人間関係として把握され、今日では
単なる労働力の売買契約とは理解されない、と考えられてい
ます。
労働契約が成立すると労働者は従業員として企業組織に組み
入れられ職場秩序に従い使用者の指揮命令を受けて労務に服
することになります。、このような使用者の支配下において
業務命令を受けて働く関係を「使用従属関係」といい、これ
が会社生活の法的基礎です。
ただし、使用従属関係といってもロボットのような関係では
ありません。あくまで人格と感情を有する生存権に基づき、
企業と本人の自由な意思による契約関係です。
本来であれば、入社、あるいは内定時にこのような労働契約
関係によって雇用されることを説明し、雇用契約書(労働契
約書)に企業、本人が署名することが必要でしょう。企業側
から出される雇入通知書の書面交付のみでは、契約精神が醸
成されず多くの不祥事などを誘発することになるのです。し
かも、就業規則を明示すれば、労働契約の締結となるという
契約方法が、いかにも集団主義の日本的契約の本質です。
労働契約のあり方は、今日、企業内不祥事への対応など以前
では考えられないようなことが起こっており、企業統治のあ
り方そのものを根底から変えることが求められているように、
私には思えてなりません。
このような契約方法が続くようであれば、やたら集団性ばか
りが強調され、善悪の判断基準すらもてない人間をつくるこ
とになっていくのではないでしょうか。
契約精神の原点へ帰るために、今、労働契約のあり方そのも
のが問われているのかもわかりません。