私は転職者だったが、ソニー子会社の当時の社長は、挑戦す
ること(挑戦ささせることも)を喜ぶ経営者だったと思う。
私は年齢36歳だが、はじめて管理部門(この時は総務部)
の仕事をする新入社員そのものだ。
なにをやったらよいかもわからず、めずらしく上司の指示に
も素直に従っていた。その後、仕事に慣れてくると逆らう(
意見をいう)ようになるのだが、この時期はひたすらおとな
しくしていた。
仕事を覚えることに飢えていた。
1年もすると、立上げ期特有の忙しさと仕事量のおかげで、
なんとか総務の仕事を理解することができてきた。
上司は相変わらず忙しく、朝から深夜まで仕事をしていた。
私もそんな上司についていった。
無理に深夜まで仕事に付き合っていたのではない。
仕事を覚えていくこと自体がおもしろく、楽しく、上司とい
ることでたくさんの仕事を覚えることができたからだ。
ただ、それだけだった
上司といれば、総務や人事、ときに経営企画の仕事を学こと
ができるので、そばを離れたくなかった。
上司はなんでもできた。
もっとも、有能なのだが、やはりどこか変わっているタイプ
だった。仕事はできるのだが、常にマイペースだった。
ソニーだからこそ在籍できるのだろう、というところがある。
総務以外にも経営企画の仕事もしていた。
とにかくタフだ。
たまに電車で寝過ごして遅刻することもあったがご愛嬌だっ
た。昼食後も、よく昼寝をしていた。
そんな上司の姿に、他の社員は批判的だったが、私は深夜に
及ぶ上司の仕事姿を毎日みていたので、この人たちはなにを
言っているのだろうか、と心のなかで思った。
仕事というものは、そもそも孤独な戦いだ。
いっしょに行動を共にしない人たちが理解できるわけがない、
と私は自分に言い聞かせていた。
私にとって、孤独な戦いは、営業時代からお手の物だ。
私は、この上司とともに行動することで総務や人事の仕事を
体得した。上司は、仕事人生の恩人だ。
そんな忙しいなか、今度は本社移転プロジェクトがはじまっ
た。上司は、この仕事もプロジェクトリーダーとしてやるこ
とになっていた。
だが、移転予定のビルの契約ができなくなり、一時中断した。
数か月先になるだろうか、オフィスとなるビルが決まった。
さっそく移転プロジェクトの再開だ。
私は、当然上司がプロジェクトリーダーをやるものだ、と他
人事でみていた。
再開後の移転プロジェクトのリーダーはお前がやる、と上司
は短く言った。
えぇ、私が。。。
そうだお前だ。
本社移転のプロジェクトのリーダーは、私にやらせろと、社
長から指示された、と上司は、その経緯を説明してくれた。
それでも、私は恐怖感に襲われていた。
自信などあろうはずもない。
プロジェクトリーダーなどやったこともない。
説明を聞いても、私は耳を疑った。
入社1年目だ、まだ総務の仕事は見習いだし、なにもわから
ない私がプロジェクトリーダーを。。。
ほんとかよ、と。
まさかの本当だった。
もちろん、上司がサポートしてくれたが、本社移転プロジェ
クト全体の構想や進捗に責任を持ち、さらに各部門との意見
交換や調整など、すべて私がやることになった。
青天の霹靂とは、まさにこのことだ。
人生初の大波に乗ったサーファーの心境だろうか。
しかも波乗りの初心者マークだ。
ちなみに、似た言葉にサファーというのがあるが、苦しんで
いる人や悩んでいる人を指すようだが、私にはこちらのほう
がぴったりだ。
波にも乗れないサファーになった。
人生ではじめて経験した大仕事だった。
だが、上司とともに上司と仲がよかった技術系の先輩がいた。
運があった。
逃げられない私はやるだけだった。
先ずは、以前にも書いたことがあるが移転先の部門別レイア
ウト図面を作成する。
また紙でやる。
おそろしくらい時間がかかる。
上司と検討しながら、しばしば二人で徹夜した。
それから各部門の責任者と図面(レイアウト案)をもとに意
見交換と調整ををおこなう。
ソニー子会社といえどもソニーの血が流れている。
ソニーでは、ソニーブルーの血というそうだが。
そんなことはどうでもいいのだが、ソニーのこの子会社は現
場が強い。
強烈な意見をぶっ放す。
私はたじたじだ。
それでもリーダーは前に進まなければならない。
すべての責任者と移転に関して意見交換と調整をしたが、移
転スペースは二倍必要だった。
みな、挑戦的だ。
やるき満々だが。。。
しかし、移転先のスペースは限られる。
各部門から出てきた要求をベースに、さらに図面を作成し、
意見交換と調整を進める。
理解がある責任者もいれば、なかなか首を縦に振らない責任
者がいる。いろいろな提案をするが、首を振らない。
首を縦に振らない部門を除きなんとかまとまったレイアウト
図面を運営会議(この会社の執行会議だ)で、役員、部長に
話せば徹底的に打ちのめされた。
まるで弱いボクサーのようだった。
逃れる道は、運営会議終了の鐘の音が聞こえたときだ。
また、会社の意図を反映したレイアウト作成する。
こうしたことを何度も繰り返しながら、ソニー流の仕事のや
り方を体に叩き込まれた。
そう、この社長、ソニー流の仕事の仕方を私に叩き込んだの
だ。私は営業から仕事をしてきたので、現場はお客さんだと
思っている。よく話を聞きながら、会社が目指す方向と現場
との意見調整をおこなった。
所詮、物事には限度がある。
現場のすべての要求を呑むことはできない。
その調整は、上から目線でやるものではない。
私は、そもそも営業上がりだから、人の意見を聞くことにな
れている。
現場をお客様だと思って対応できる。
営業をやったおかげで、ほんとうにそのような対応が可能な
のだ。いわゆる腰の低さができた。
わがまま私だが、これができないと取引先との交渉はできな
かった。上から目線で話をしようものなら、取引先へ出入り
禁止になるだろう。実際、このような営業社員を、他社だが
みてきた。
営業職時代に学んだ姿勢が役に立った。
移転プロジェクトの現場とのやりとりのときだった。
当然、現場と意思の疎通ができるようになれば、ある時点か
ら会社が目指すべき方向(予算と現状のあるべき姿)に収れ
んさせていくことができる。
本社の上から目線で対応するのは簡単だ。
社長がこういっているなどと言えば済むことだ。
だが、この社長、そのような権力を笠に着た対応を望んでい
ないことは、これまでの社長の行動をみていればわかってい
た。ソニーの経営マネジメントは、私が営業時代に経験した
マネジメントとはまったく違うのだ。
現場に入り、現場の人たちとコミュニケーションをとりなが
ら、現場が納得する形で仕事をすることを求めていた。
決して言葉に出さないが。。。
常に、自由と責任があった。
だからだろう、現場は、現場の考えを徹底的に主張する。
現場と執行部門との戦いをいかに収めるかが、私に課せられ
た仕事だった。
このような仕事は、私に権限がないだけに徹底した現場、現
物、現実をみることで執行部門と戦える。
私は現場にはいって現場に必要な機能を把握し、可能な限り
現場が求めている機能を作れるように努力した。
もっとも、現場からの要求でも無理筋の要求に対しては、や
わらかく出来ない理由を伝えていき、これも納得してもらっ
た。
私の仕事は、あくまで現場が吐き出しす(主張する)意思を
尊重しながら、現状の予算とあるべき姿との整合性をとって
いくだけだ。
移転の仕事では、最終的に確定した案に従ってもらうことは、
あくまで人間対人間の立場から理解してもらうしかない。
私には移転仕事のリーダーではあるが権限はない。
また、権限がないからよいのだ。
リーダーとは、所詮まとめ役の立場でしかない。
人として現場に向き合い、しっかり話をすることしかできな
い。
短い時間だが、現場に入って、みて、聞いて、現状を理解で
きれば、その調整は可能だ。
人間とは、それができる生き物だからだ。
私には、むずかしくない。
徹底的に話をすることができるからだ。
他人には、むずかしくみえるようだが。。。
営業時代、取引先の責任者や担当者と交渉してきたことが生
きた仕事だった。
移転プロジェクトは、私にとって、まさに営業活動の延長で
もあった。
このような人材育成を可能とするのは、経営サイドのマネジ
メントに余裕があり、そして傍に上司と先輩がいてくれたお
かげだ。
何度、助けられたことだろう。
社長と上司、そして先輩は、右往左往している私にとって羅
針盤のように目指す方向を示してくれた。
このような環境がなければ、私は、移転プロジェクトのリー
ダーなどやれなかっただろう。
このような立場で仕事をさせてもらったのも、社長の配慮だ。
所詮、仕事といってもこのような運に恵まれるから、普通の
私のような人間は成長させてもらえるのだ。
人を育てるということは、現場に放り込むことだと知った。
能書きなどたれている暇はない。
人を成長させるとは、こういうことだ。
マネジメントの本に書いてあるようなことなど吹き飛ぶほど
だ。自らの人格に基づく行動があるだけだった。
私は必死になってやり抜いた。
それだけだ。
はじめて挑戦させられたが、おもしろかった。
死ぬほど苦しい時期もあったが、総務部門の投資額は約3億
円だった。入社1年目の社員の私が決裁した額だ。
驚くばかりだ。
現場の投資額をいれれば、その倍以上だろう。
投資というのは、このように大胆にやることを体得した。
だからこそ、今でも見事に成長しているのだろう。
経営とは、次から次にバトンが渡る。
どんな時代でも、ソニーブルーの血が流れていればいいのだ。
そして経営組織(経営者の意思)と個人の意思と行動がある
だけだ。執行側と現場の葛藤は当たり前だ。
それが経営であり、その葛藤から次の未来がみえてくる。
未来が見えてきた。
それができる企業が、ビジョナリー・カンパニーといわれる
ゆえんだろう。
ソニーとはそんな企業のひとつなのだろう。